小野田寛郎「私が見た従軍慰安婦の正体」 「正論」一月号より


私が見た従軍慰安婦の正体-小野田寛郎 

 首相の靖国神社参拝や従軍慰安婦の問題は、全く理由のない他国からの言いがかりで、
多くの方々が論じているところだ。

南京大虐殺と同様多言を弄することもあるまいと感じていたのだが、
未だに妄言・暴言が消え去らない馬鹿さ加減に呆れている。

戦後六十年、大東亜戦争に出征し戦場に生きた者たちが少なくなりつつある現今、
私は証言として、「慰安婦」は完全な「商行為」であったことを書き残そうと考えた。

外地に出動して駐屯する部隊にとって、治安維持と宣撫工作上最も障害になる問題は、
兵士による強姦と略奪・放火である。

そのためにどこの国もそれなりの対策を講じていることは周知の通りである。
大東亜戦争時、戦場には「慰安婦」は確かに存在した。
当時は公娼が認められている時代だったのだから至極当然である。

野戦に出征した将兵でなくとも、一般に誰でも「従軍看護婦」と言う言葉は
常識として知っていたが、「従軍慰安婦」と言う言葉は聞いた者も、また、使った者もいまい。

それは日本を貶める為に後日作った造語であることは確かだ。

淫らな言葉だが、中国戦線では「ツンコ・ピー」「チョウセン・ピー」と呼んでいた筈であるが、
他の人の見ている所でする筈のないことだけに、「慰安所」のことも「慰安婦」のことも、公の場で自己の見聞を正確に発表する人が少ない。

あまり詳しいと「よく知ってるね」と冷笑されるのが落ちだろう。
では何故、君は、と私に聞かれるだろうが、幸い私はその実態を外から観察出来る立場にあったから、何も臆することなく、世の誤解を解くために発表することが出来るのだ。

◆漢口の「慰安所」を見学

商社員として十七歳の春、中国揚子江中流の漢口(現武漢)に渡った私は、
日本軍が占領してまだ五カ月しか経っていない、言わば硝煙のにおいが
残っている様な街に住むことになった。

当時、漢口の街は難民区・中華区・日華区・フランス租界・日本租界・
旧ドイツ租界・旧ロシア租界・旧英国租界に分かれていて地区ごとに
それぞれ事情に合った警備体制が敷かれていた。

日華区とは日本人と中国人とが混じって住んでいる地区で、
そこに住む中国人は中華区に住む者と同様「良民証」を携帯しており、
そうでない者は警備上難民区に住まされていた。

難民区は日本兵も出入りを禁止されていて、私たち在留邦人は届け出て
許可を得なければ出入り出来なかった。それだけ危険な場所だった。

私は、仕事が貿易商だから、難民区以外はよく歩いた。

ある日、汚れた軍服を着た兵士に「慰安所はどこか知りませんか」と路上で尋ねられ、
一瞬思い当たらず戸惑った。

しかし看板に黒々と「漢口特殊慰安所」と書いて壁に掲げていて、その前に歩哨と
憲兵」の腕章をつけた兵隊が立っている場所を思い出したのでその通り教えてあげた。

映画館と同様に日華区にあった。汚れた軍服から推測して、作戦から帰ってきた兵士に
間違いない。街を警備している兵士は、そんな汚れた軍服で外出してないからだ。

私は「特殊慰安所」か、なるほど作戦から帰った兵士には慰安が必要だろう。

小遣い銭もないだろうから無料で餅・饅頭・うどん他がサービスされるのだろうと
早合点していた。ところが、私の知人が営む商社は日用品雑貨の他に畳の輸入もしていて、

それを「慰安所」にコンドームなどと一緒に納入していたので
慰安所」の出入りが自由であった。

彼に誘われて一般在留邦人が入れない場所だから、これ幸いと見学に行った。
私たちは、憲兵に集金の用件を話してまず仕事を済ませた。

日が暮れていたので「お茶っぴき」(客の無い遊女)が大勢出てきて、
経営者と私たちの雑談に入ろうとしてきたが追い払われた。

そこには内地人も鮮人も中国人もいた
(現在、鮮人は差別用語とみなされ、使われない。しかし朝鮮半島が日本統治だった当時は「日本人、朝鮮人」などと言おうものなら彼らに猛烈に反駁された。彼らも日本人なのだからと言う理由である)。



 群がってきた彼女たちは商売熱心に私たちに媚びてきた。
憲兵は特別な事情の時以外は、部屋の中まで調べに来ないからである。

料金は女性の出身地によって上中下がある。

また、利用時間も兵士は外出の門限が日没までだから日中に限られるが、
下士官は門限が長く、将校になれば終夜利用出来る。
料金も階級の上の方が割高で、女性たちは当然、同じ時間で多く稼げることになる。

半島出身者に
「コチョ(伍長─下士官)かと思ったらヘイチョウ(兵長─兵士)か」
「精神決めてトットと上がれ ネタン(値段)は寝間でペンキョウ(勉強)する」とか、
笑うどころではない涙ぐましいまでの努力をしているのも聞いた。

内地人のある娼妓は
「内地ではなかなか足を洗えないが、ここで働けば半年か一年で洗える」といい、
中には「一日に二十七人の客の相手をした」と豪語するつわものもいた。 

◆どこにもいなかった「性的奴隷」

ここで親しくなった経営者の話を紹介しよう。
「体力的に大差がない筈なのに、内地人は兵士たちと言葉が通じるために情が通うのか、
本気でサービスして商売を忘れ健康を害してしまう。

そのために送り返さねぱならず、経営者にとって利益が少ない。
兵隊さんには内地人ばかりで営業するのが本当だが」と本音を漏らしていた。

私の育った街には花柳界があったので、芸妓と酌婦をよく眼にしたが、
当時は玄人女と呼ばれた彼女たちの外出姿でも一般の女性と見分けることが出来た。

その目で見れば漢口の街でも同様だったが、特に朝鮮人の女たちは特色があった。

というのは彼女たちは数人で外出してくるのだが、民族衣装ではなく、
着慣れないツーピースの洋装のせいで着こなしが悪く、また歩き方にも特徴があって
一目で見分けられた。彼女たちは実に明るく楽しそうだった。

その姿からは今どきおおげさに騒がれている「性的奴隷」に該当する様な影は
どこにも見いだせなかった。 
 
確かに、昔からの言葉に、
「高利貸しと女郎屋の亭主は畳の上で往生出来ぬ」というのがあった。

明治時代になって人身売買が禁止され「前借」と形は変わったが、
娘にとっては売り飛ばされた」ことに変わりはなかった。

先述の「足を洗う」とは前借の完済を終えて自由の身になることを言うのだが、
半島ではあくどく詐欺的な手段で女を集めた者がいると言う話はしばしば聞いた。

騙された女性は本当に気の毒だが、中にはこんな話もある。
「『従軍看護婦募集』と騙されて慰安婦にされた。

私は高等女学校出身なのに」と兵士や下士官を涙で騙して
規定の料金以外に金をせしめているしたたかな女もいた。

またそれを信じ込んでいた純な兵士もいたことも事実である。
日本統治で日本語が通じた故の笑えない喜劇でもある。

ところで、その「慰安所」にどれだけの金が流れたのだろうか。
これが「慰安婦」が「商行為」であった確かな事実である。

私の次兄が主計将校で、漢口にある軍司令部に直接関係ある野戦衣糧廠にいたので
慰安所」について次のような統計があると教えてくれた。

当時、漢口周辺には約三十三万人という兵力が駐屯していたが、
ある理由で全軍の兵士の金銭出納帖を調べた。

三分の一が飲食費、三分の一が郵便貯金、三分の一が「慰安所」への支出だった。

貯金は給料の僅かな兵士たちにとって嬉しいことではなかったが、
上司から躾として教えられている手前せざるを得なかったのが実情だった。

私も初年兵として一ケ年、江西省南昌にいたが、食べたいのを我慢して貯金した。

一人の兵士がそれぞれ三等分して使った訳ではないだろうが、
人間の三大欲は食欲、睡眠欲と性欲と言われるだけに、
貯金を睡眠に置き換えると全く物差しで測った様な数字である。

ちなみに当時の給料は兵は一カ月平均十三円程で、
その三分の一を約四円として計算すると三十三万人で総額約百三十二万円になる。

零戦」など戦闘機一機の価格は三万円と言われたが、実に四十四機分にも相当する。

サラリーマンの初任給が四十円そこそこの頃だったのだから、
経理部の驚くのも無理のない話である 

 

これが事実だよ。
つーか最近まで元気だったの番組放送から1年後に急死とか。 

>戦時中の慰安所の一番のお得意様は「同胞」だったんだよ。朝鮮半島で女衒に娘を売ったのは朝鮮人の親、買ったのは朝鮮人の女衒、売春宿の経営者は朝鮮人朝鮮半島出身の売春婦を最も買いまくったのは朝鮮出身の兵士、
要は地産地消だったとNHKアーカイブに証言した日本海軍飛曹長の伯父が言ってた。

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>【ねつ造・南京大虐殺bot】この写真は台湾の国家図書館に保存。
日軍が南京に到着したらすぐ周りの飢餓の遊民にご飯を食べさせたり、
世話をしたりしていた。暴行略奪なんて狐疑で、考えられない.:
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戦時中の朝日新聞 慰安婦強制連行したのは朝鮮人業者と報道

2013.09.01 07:00  NEWS ポストセブン


慰安婦強制連行」説を主導してきた朝日新聞だが、近現代史家・ジャーナリストの水間政憲氏は、戦時中の朝日新聞朝鮮版が「慰安婦」についてどのように報道していたかを精査した。新刊『日本人が知っておくべき「慰安婦」の真実』(小学館)の中で、水間氏は以下のように解説している。

* * *
朝鮮半島で一般女性を拉致監禁して遊廓などに売り飛ばしていたのは悪徳朝鮮人業者だった。では朝日新聞・朝鮮版では当時のこのような状況をどう伝えていたのだろうか。

〈婦女誘拐の一味 遂に送局さる 元釜山府臨時雇らの首魁

官印偽造、公文書を偽造行使し多数の婦女子を誘拐した元釜山府庁臨時雇釜山府大倉町四丁目五十九番地金東潤(二十七年)ほか七十七名に係る公印偽造、公文書偽造行使詐欺誘拐事件は釜山署で取調中のところ今回取調終了、二十日一件記録とともに身柄を送局したが拘束者は金東潤ほか九名、起訴意見十一名、起訴猶予五名、起訴中止六名、不起訴五十五名である。

被害婦人は二十八名に上り、このほか南洋方面に誘拐されたものも多数ある〉(『大阪朝日・南鮮版』1939年11月21日付)

他にも悪徳朝鮮人業者が摘発された記事がある。

〈田舎娘など十四名も誘拐 一味送局さる

京城府蓬莱町四丁目無職裴長彦(五十七年)ほか十一名は共謀して田舎の生活苦に喘ぐ家庭の娘、あるひは出戻り女など十四名を誘拐して酌婦あるひは娼妓などに売飛ばして約一万余円をせしめてゐた事件は西大門署で取調べてゐたが、二十五日一件書類とともに送局した〉(『大阪朝日・西鮮版』1940年6月28日付。写真)

朝日新聞も「強制連行」の真犯人が朝鮮人だと報じていたのだ。「慰安婦」は当時合法であったにもかかわらず社会問題となったのは、一部で悪徳朝鮮人業者が婦女子を拉致、誘拐していたことによる。そこで、これらの悪質な朝鮮人業者に対し、陸軍省は1938年3月4日に『軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件』と題する命令書を発令している。

「(婦女子を)不統制に募集し社会問題を惹起する虞あるもの(略)募集の方法誘拐に類し警察当局に検挙取調を受くるものある等注意を要す(略)周到適切にし其実施に当たりては(略)警察当局との連携を密にし(略)社会問題上遺漏なき様配慮」せよというものである。

悪徳業者に十分注意し、問題の起こらないように配慮を怠るなという厳命である。

だが、朝日新聞は1992年1月11日の朝刊トップで、この『軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件』を「(慰安婦)募集含め統制」と書き、軍が慰安婦募集に直接関与していた証拠として取り上げたのである。悪徳業者を取り締まるための軍の「良識的な関与」を、あたかも軍が「強制」に関与したかのように報じるのは意図的な事実の歪曲だろう。

※『日本人が知っておくべき「慰安婦」の真実』(小学館)より

>2017・4月4日、李順徳(98)元慰安婦、老衰のためソウル病院で死亡。
平成10年、李の経歴について次のような事実を認定した。

■「昭和12年の春、満17、18歳のころ、夕食の準備をするため畑のあぜ道で蓬を摘んでいたところ、40歳くらいの朝鮮人の男から、『自分についてくれば、履物もやるし着物もやる。腹いっぱい食べられるところに連れて行ってやる』と声をかけられた。
家が貧しく満足な履物もなく、空腹を癒やすことに精いっぱいの生活を送っていたため、誘いに応じてついて行くことに決めた」

その後、韓国によって改変された「不都合な事実」慰安婦勧誘、
朝鮮人から日本人に!


付記
ライダイハン

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>ライダイハンってベトナム語で「混血(來)大韓」って意味でしょ。「敵の子」というニュアンスもある。読んで字のごとくレ○プしてんじゃん。
明らかな国際法違反。
証拠も生きてる。

ベトナムはDNA鑑定書と共に国際仲裁裁判所に訴え出れば、簡単に勝つことができる。

>1.韓国が米国に、『是非ベトナム出兵に協力させて!』
『来るな!お前らは必要ではない!』
でも強引に出兵して好き勝手にバカな事だけを繰返した、この事実は約20年前に明ら
かにされ、NEWSWEEK日本版に、続いて複数他誌も独自調査を行い、掲載されました。
NEWSWEEK日本版には韓国人記者が多いので、米国人記者達が直接参加。

>世界的な「偽善ビジネス」の終焉。
これまで長年、シナチョンユダヤは、我慢や泣き寝入りをしている相手に、
更なる我慢や泣き寝入りを強いて、自分達の利権を保持してきたけど、
既に、限界を大きく過ぎているのよね。

落ちぶれつつある、在米ユダヤは、シナマネー頼りになって、随分経つけど、
金主のシナも、そろそろ終わりよね。
シナが終わった後は、ロスチャイルドだけで、世界全ての偽善団体を、支えるつもりなのかしら?
果たして、支え切れるかしら?
共倒れしちゃう?w 悪行を暴露されるのも覚悟で、切り捨てちゃう?w

この流れ、シナチョンユダヤが、どれだけ足掻こうとも、止められないよ。