済州島虐殺と鶴橋のコリアンタウン 荒川区

祖国捨て日本へ「済州島虐殺」という地獄

大阪・鶴橋のコリアタウンの背景

政治・社会 2017.8.12   

現在は美しいリゾート地として知られる韓国最南端・済州島。だが、朝鮮戦争と前後して、李承晩大統領による徹底的な弾圧を受け、人口が9分の1になる「地獄」を経験した島でもある。島民の多くは、祖国を捨てて日本に渡り、大阪・鶴橋のコリアタウンに集まるようになった。当時の韓国大統領は、なぜヤクザ崩れの暴力組織まで使って、自国民を虐殺しつづけたのか――。

統一か独立かで国論が二分

いつも観光客でにぎわう、大阪・鶴橋のコリアタウン。おいしい焼肉店や各種の韓国食料品店、美しいチョゴリを売る店など、本場の韓国さながらの雰囲気が人気です 。
一方で、実はこの街の成り立ちそのものが、韓国の悲しい歴史と深く関係しているのです。
今の在日韓国・朝鮮人の人々のうち、済州島の出身者が大きな割合を占めると言われます。済州島は韓国の最南端の島で、福岡から100km程度、対馬から50km程度の距離にあります。現在では観光リゾートとして人気を集めている場所です(昨今、中国人や中国企業が島の不動産を買いあさり、森林の伐採を進め、水資源などを大量に採取して、深刻な問題が生じています)。
この美しい島が、第2次世界大戦が終わった後、2度も地獄と化しました。1948年の済州島虐殺事件(済州島四・三事件)と、1950年からの保導連盟事件に連動した大弾圧です。これらは私たち日本人にとっても関係の深い出来事なので、よく見ておきたいと思います。
まず、済州島での大量虐殺がなぜ生じたのかという政治的な背景を見ておきましょう。第2次世界大戦後、朝鮮半島アメリカとソ連により、北緯38度線を境に南北分割占領されました。冷戦の対立の深まりとともに、米ソ両国は傀儡(かいらい)政権をそれぞれ樹立します。南部では李承晩が、北部では抗日パルチザンで活躍した(とされる)金日成が首班となります。
李承晩は北部との対立を後回しにして、南部単独で国家樹立を先行させるべきと考えていました。一方、そのようなことをしてしまえば、民族が分断されることになりかねないとして反対する者もかなりいました。その代表が金九(キム・グ)や金奎植(キム・ギュシク)や呂運亨(ヨ・ウニョン)でした。(金九と呂運亨はその後、李承晩派とみられる 人物によって暗殺されます)。

反体制派への「ヤクザテロ」の恐怖

民族分断に対する抵抗は、一般世論としても、大きく巻き起こります。危機感を強めた李承晩は、統一派をけん制するため、彼らを共産主義のスパイとして取り締まりました。1948年の段階で、統一派を消すために李承晩が主にとった手段は、暗殺と「ヤクザによる恫喝」でした。
日本統治時代の朝鮮半島には、日本の統治法制に服しない「ならず者」の集団があり、闇市でさまざまな物資を流通させて稼いでいました。中国経由でアヘンなども扱っていたようです。実質的には一種のヤクザ組織で、朝鮮全土に広範なネットワークと巨大な組織を形成していました。
戦後、李承晩政権は彼らを取り込み、「大韓民主青年同盟」を結成させ、共産主義に対する白色テロの組織として、半ば公然と支援します。大韓民主青年同盟の実質的な指導者となったのが金斗漢(キム・ドゥハン)という裏社会の大物で、後に国会議員になる人物です。さらに李承晩政権は、北の迫害を受けて南に流れて来たヤクザ たちを、同様に北から逃げてきた若者たちとともに「西北青年団 」という組織にまとめます。
李承晩政権は大韓民主青年同盟や西北青年団を利用して、共産主義者や政権に批判的な者を暗殺したり、恫喝したりしていました。警察や軍などの正規実働部隊には行動させず、住民票もろくにない(つまり、不法行為の手がかりが残りにくい)ヤクザに、反対派への示威行動をさせたのです。李承晩の番犬のような役割を演じた大韓民主青年同盟や西北青年団は、アメリカからもその存在を認められていました。

政権基盤の弱さゆえの暴走

李承晩が1948年に入り、南部単独での国家樹立を打ち出すと、統一派の反発が南部全域で強まりました。特に、済州島民は政権批判を強めました。済州島は李王朝の時代から弾圧と迫害の歴史を有しており、反体制的な色彩の強い地域でした 。
李承晩は自分に歯向かう「生意気な」地域の代表として、済州島を選び、見せしめに島民を大量処刑することに決めたのです。
この時、済州島に軍や警察とともに派遣されたのが西北青年団でした。ヤクザ者の彼らは島民を略奪・性的暴行・虐殺する「自由」を与えられ、その結果、島民の5人に1人にあたる6万人が殺害されて、済州島の村の大半が焼き尽くされます。
当時の国防長官の申性模(シン・ソンモ)は済州島民の虐殺について、「西北青年団」が島民に乱暴を働いたことであると答え、軍や警察の関与を平然と否定しています。
済州島虐殺事件は、この連載でも前に触れた「漢江橋爆破事件」「保導連盟事件」と並ぶ、韓国当局による自国民の虐殺事件です。しかし、李承晩政権下の自国民虐殺事件はこれだけではありません。主なものだけでも、以下のようなものがあります。
・高陽衿井窟民間人虐殺事件(1950)
・江華良民虐殺事件(1951)
・山清・咸陽事件(1951)
・居昌虐殺事件(1951)
これらは共産主義者やそのスパイ、北朝鮮に協力したと見なされた一般民間人を、当局が処刑・虐殺した事件です。ただ、それは建前上の理由であり、実際には、政府に批判的な人々やその家族を消すということが目的でした。日本統治時代の親日派も処刑されています。
当時の大統領李承晩は政権基盤を持っていませんでした。戦前、アメリカに亡命していた経歴があったため、アメリカ人のコネで、アメリカ人によって担がれた傀儡政治家でした。戦後、臨時政府の首班となり、そのまま、韓国大統領となります。李承晩は自らの政権基盤を固めるために、反対派を大量処刑・虐殺します。政治経験の未熟な李承晩は、恐怖政治という古典的な手段以外に頼れるものがなかったのです。
さらに、1950年に朝鮮戦争が起こると、前回この連載で解説した保導連盟事件に連動し、済州島での取り締まりが強化されました。刑務所に収監されていた容疑者まで含め、大量処刑・虐殺が1953年の休戦の時を超えて54年まで続き、約28万人いた島民は3万人弱にまで激減したとされます。
死体は海に投げ捨てられ、その多くが対馬や北九州に流れ着き、対馬や北九州の人々が埋葬し、供養しました。

コリアタウンの賑わいの陰に

また、この期間、小さな船で命からがら済州島を脱出する者が絶えず、対馬や北九州、山口県の海岸から日本へ入り、彼らは在日韓国人となります。彼ら済州島出身者の多くが、大阪市生野区の鶴橋に定住し、コリアタウンを形成していきます。
どうして、鶴橋だったのでしょうか。1920年代から大阪市の市域拡大開発が続き、生野区などの西部地域で大規模な土木工事が展開されました。朝鮮人の出稼ぎ労働者もこの土木工事に積極的に受け入れられ、当時から朝鮮人集落の原形がいち早くできていました。その後も集落は発展していき、1948年の「済州島虐殺事件」後、多くの済州島民が鶴橋を頼り、移り住んだのです。事情を理解していた大阪市側も、彼らにさまざまな行政的支援を与えています。
鶴橋のコリアタウンは、その存在そのものが、韓国の凄惨(せいさん)な戦後史の証人なのです。


宇山卓栄(うやま・たくえい)
1975年、大阪生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。個人投資家として新興国の株式・債券に投資し、「自分の目で見て歩く」をモットーに世界各国を旅する。おもな著書に、『世界一おもしろい世界史の授業』(KADOKAWA)、『経済を読み解くための宗教史』(KADOKAWA)、『世界史は99%、経済でつくられる』(育鵬社)、『“しくじり”から学ぶ世界史』 (三笠書房) などがある。


南鮮密入国者に対する国会議事録抜粋

1955年 衆議院会議録情報 第022回国会
法務委員会 第23号より

★小泉政府委員 
最近においては、子供だけ三十人くらいの団体を連れて密航をして、大人だけは完全に逃げてしまっている、がんぜない子供だけがつかまっておるというような事実もありまして、この取扱いには非常に係の者も苦慮いたしておるようでございます。
60万人と推計をせられる朝鮮人のうち、日本から母国に帰りたいという者は一人もいないといっても大した言い過ぎではない。
一方向からは、入れれば、それこそ手段方法を選ばず、命がけでも密航をして、方法さえつけば怒濤のごとくどんどん入ってくる。
そしてこちらから強制送還をしようといたしましても、韓国の政府がこれを容易に受け付けない。
不法入国であろうが何であろうが、返すことができないで、大村収容所にはますます人員がふえていく。
それをみな国費で、国民の血税で養ってやらなければならない、その取扱いについても、きわめて懇切丁寧にしなければ、人権蹂躙というような問題まで起きてくる。



>>日本国政府密入国者に違法に支援を与え続けてきたわけだが
>彼らはこれに応えてきたのだろうか

おいおい。
竹島を韓国が不法占拠した時に、李承晩が日本人漁師の人質をたてに
日本に「正式に法的に認めさせた」のが特別永住許可だぞ。
そして海部政権の時に「特別永住許可世襲」まで認めちまったんだよ。
もうあれから70年経ってるわけだし、見直すべきと思う。

>「強制されたニダ!謝罪!賠償!」と言って恥じようともしない。

民団や総連が主導する反日に喜々として乗り、
その嘘に塗れた汚らわしい旗を振って大騒ぎだ。

それこそ北朝鮮に拉致された日本人と違って、
在日朝鮮人の帰国の自由は一切制限されていないぞ。


>一族殲滅、根こそぎ大虐殺はチョーセンとチューカの伝統芸能w
屠蜀って聞いたことある?

>>日本統治時代の朝鮮半島には、日本の統治法制に服しない「ならず者」の集団があり、闇市でさまざまな物資を流通させて稼いでいました。
中国経由でアヘンなども扱っていたようです。実質的には一種のヤクザ組織で、朝鮮全土に広範なネットワークと巨大な組織を形成していました。


慰安婦仕入れ業者が判明したじゃん


>つまり、在日朝鮮人たちの言う「私達は日本に強制連行されてきた」というのは嘘だったと。
ただ単に、韓国政府から迫害されるのを逃れるために、自主的に日本に逃げてきただけだと。

やっぱりな。朝鮮人は嘘吐きだわ。

>それがいつのまにやら「強制連行」「性奴隷」とかにすり替わってるのが今かしら。

>1945年まで36年間に渡って過酷な日帝支配してたらしいのに
5年後の1950年に半島で内乱が起きたら日本に逃げるんだ
ふーん

>不法入国者を雇うのも結婚するのも生活保護を出すのも違法なのに、「差別」にすりかえてきたことがバレたから、
今必死に倒閣運動して、都合のいい政権を作ろうとしてるんだろうね

>北はともかく、今の韓国は民主化されているから戻れない理由は全く無いのになぁ。



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【東京】荒川区の韓国・朝鮮籍者は約5500人、足立区に次いで有数の在日居住区 その大半は済州島出身、とくに三河島駅周辺に集中

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心の故郷済州島…在日本高内里親睦会90周年に

在日本大韓民国民団
(2017.8.15 民団新聞)

在日本高内里親睦会(金哲祥会長)が創立されて今年90年を迎える。在日同胞の郷土親睦会としてはおそらく最も古いと言われている。東京都荒川区三河島を中心に会員数は約470人。家族を含めると1000人以上を数える。90年経った今でも1世たちにとっては、いつまでも変わらない同郷人の心の拠り所であり、2世以降の世代たちにも自身のルーツを確認しあう場となっている。

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カバン製造で支えて…郷里に多大な貢献、謝恩碑も
荒川区三河島に集住…民団支部の役員も多数輩出


 在日本関東済州道民会(当時は済州開発協会)が創立されたのが1961年。高内里親睦会はその34年前に誕生している。

 現在の会長は2世の金哲祥さんで56歳の丑年だ。90年間、会員同士が分裂することなく、途切れずに継承されている。これには理由があった。

 1974年の定期総会で会長の選出方法を変更した。それまでは比較的、経済的に余裕のある会員が重責を担ってきたが、干支による輪番制で就任することになった。任期は1年だが、該当する干支の会員が少ない場合は他の干支と合併して選出ができ、その場合の任期は2年となる。

 会員の約9割は荒川区に居住する。高内里は済州道でも小さな村であるため、その地縁関係は強固だ。特に1世にこの傾向が強い。

 民団荒川支部の支団長歴任者に高内里出身が多いことに驚かされる。現在の秦富澤支団長も親睦会の会長を務めた。

 秦さんによると「過去、荒川支部の3機関長を高内里で占めたことは珍しくなかった。そんなときは副任員にほかの村の人を登用した。逆に、高内里以外で3機関長を構成するときは、副任員に高内里関係者を抜擢するのが慣例だった」という。

 親睦会の前身は「在東京高内里少年共昌会」で1927年に創立された。1930年に郷里から二百数十人の青年が荒川に大挙やってきたこともあり、名称の「少年」を「青年」に発展させ、「在東京高内里青年会」に改称した。

 1945年に祖国解放を迎えるが、初めて高内里から渡日した呉斗萬さんが軍需産業に携わっていたことから解散させられることなく、1949年には「郷里出身者の一層の団結、親睦、扶助にあわせ、郷里発展への貢献」をめざすため、現在の名称となった。

 また、結成から25年間、男性に限定してきた会員資格を52年の第51回定期総会で規約を改正し女性も正会員になれるようになり、婦人会が発足した。その年には親睦会の歌が制定され11月に開かれた創立26周年記念運動会で合唱した。

 高内里出身者が荒川区に多く居住するようになったのは、解放前から来ていた会員がカバンの縫製を始めたからだった。第2次大戦中に軍需産業の一つである兵隊の背のう(ランドセル)の製造に携わったことからミシン操作はお手のものだった。

 解放後もカバン製造などを営み「なんとか食える」ようになると、郷里から親や親戚、友だちを頼って同胞が次々三河島にやってきた。

 秦さんは「かつて我々の心の故郷は高内里だった。小さくて貧乏だった村を少しでも発展させようとせっせと稼いだお金を送った」と当時を懐かしそうに語る。

 親睦会の寄付金で高内里ではいち早く水道や電気が敷設され、道路の舗装も急ピッチで進んだ。62年に「郷里開発期成会」を結成し、郷里の中央道路拡張と周辺道路の舖装、井戸掘り事業をスタートさせ、2年後に完工した。また、公会堂の建設地の寄贈や涯月中学校新築のための募金も集めた。

 そんな郷里への貢献に対し、高内里では「難しい時代に郷里の発展のために多くの貢献を惜しまなかった在日高内里同胞の分かち合いの精神を広めよう」と、2012年8月12日に「在日高内人恩恵不忘碑」を建立した。

 良き伝統として現在にも受け継がれてきたのは、冠婚葬祭時の相互扶助精神だ。特に最近まで、葬祭時には現職役員が告別式の受付から司会進行まで一切を分担し、葬儀委員長は会長が務めるのがならわしだった。

 だが、世代交代が進んだいまは、素朴な郷土愛にも温度差が目立つようになった。郷里を訪れたことがない在日3世も増え、ましてや日本で生まれ育った2世以降の世代には、親睦会は自らのルーツを認識する場でしかない。

 80年代後半に入るとカバンのメーカーは中国に発注するようになり、廃業する会員も増えていった。職業選択の幅が広がったことでカバン製造を継ぐ2、3世も減り、絶対的な「よりどころ」としての認識は薄くなった。

 かつて盛んだった運動会も63年を最後に行われていない。成人式や還暦・古希祝いなどの行事も廃れ気味だ。

高内マダン求心力の軸

 そこで2世たちが同郷人としての絆を深めようと、18年前からはじめたのが会員とその家族の交流を図る「高内マダン(バーベキュー大会)」だ。運営隊として「高遊会(高内のみんなで楽しく遊ぶ会)」を発足させ、第1回は渡来人ゆかりの地でもある埼玉県の高麗川の河原で開催した。

 以降、三河島地区周辺の公園や学校跡地で行ってきた。今も場所を舎人公園に移して続けており、今年は老若男女あわせて120人が集まり、準備した肉70㌔などを完食した。また、会員たちに欠かせないのが焼き肉だけでなく、郷土料理の「ハンチ・ムルフェ(イカ刺しの冷やしスープ)」だ。この日も婦人会が調理した約100人前が瞬く間に完売となった。

 10月15日には日暮里駅前のホテルで90周年記念祝賀会を開く。

 今年1月に会長に就いた金さんは「重荷を背負ってしまったが、90周年という記念すべき年に経験できるのはとても光栄だし、一生忘れられない1年間になるだろう」と記念行事成功に向け目を輝かせている。

 張英敏委員長はじめ、元会長の梁裕和さんや事務局の呉純吉さんら90周年記念行事実行委員の2世たちも「苦労を重ねて1世たちが築いてきた在日高内里人の歴史を次世代にいかに継承していくか。再出発のチャンスにしたい」と張り切っている。

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高内里と三河島

 現在、荒川区の在日同胞(韓国・朝鮮籍)は約5500人。東京都内では足立区に次いで有数の在日居住区である。その大半は済州島出身だ。とくに三河島駅周辺に集中しており、多くが高内里出身者だ。

 高内里親睦会の資料によると、高内里出身者がはじめて荒川区にやってきたのは100年前の1917年、呉斗萬という男であると記録に残っている。この後、呉さんの後を追うように高内里から続々と荒川区にやってくる。呉さんは渡日後、軍需関係の仕事に携わったことで日本の当局に顔もきき、故郷、高内里の親族・友人たちに渡航証明書を発行させて呼び寄せたと言われている。

 また、呉さんはやってきた高内里の人たちには知りあいになったカバン工場や靴工場の経営者に働き場所を紹介した。

 1922年に済州島と大阪間の定期航路「君が代丸」が就航すると、済州島からの渡日はさらに増え続けた。1930年には高内里から大挙、二百数十人が荒川区に渡ってきた。

三河島地場産業

 三河島には1883年、日本家畜市場株式会社・笠原工場が最初に設立されると、翌年には大野製革工場、1890年には現在の尾久変電所付近に屠殺場、関連事業の皮革工場、肥料工場、油脂工場が作られ、のちにカバン製作を中心とした皮革業が地場産業として分散してきた。

 また繊維街としても知られる同地域は1910年代、浅草方面で営業していた古繊維、栽落業者が、当時まだ閑散としていた日暮里、三河島周辺に集団移動した関係で布製品や皮革製品製造が盛んになった。

 カバン工場には高内里の人、靴工場やゴム製品工場などには別の済州島の人を紹介するうち、技術を身につけ独立、自宅を兼ねた小さな工場を持つようになった。

 後にこの町工場で働く同胞は、新たに独立するため当時、価格が安い土地や家屋を求めて西新井橋を渡り、足立区に移住していった。橋を渡った足立区の本木と関原地区に済州島出身同胞が多いのはそんな歴史からだ。

マジソンバブル

 カバン製造業を多く営んでいた高内里同胞にとってのバブルは、60~70年代に全国の中高生を中心に一世を風靡したスポーツバッグ「マジソンバッグ」だ。カバンメーカーとして知られるエース社が1968年から10年間にわたって製造販売していたバッグで、中・高生たちの「ファッション品」とも言われ、2000万個という驚異的な売り上げを記録した大人気商品だった。

 当然、在庫切れが続出。当時、エース社はマジソンバッグの意匠登録をしておらず、そこで他のメーカーもパチ物、バッタ物と呼ばれる類似品の製造販売を始めた。

 当時の日本では、偽ブランド品を犯罪視するような商業倫理は製造者にも消費者にも希薄だった。「国産品」なら正規品に引けを取らない品質でもあり、売価が正規品の半額近い800~1000円ほどのため、中高生が飛びついた。製造技術に秀でていた荒川同胞のカバン工場は終夜作業でこのマジソンバッグを製造したという。

 今もカバン工場を営む秦富澤さんもそのひとだ。

 「あのときは、三河島中のミシンがフル稼働していた。近所から騒音のクレームも絶えなかった」と当時をふり返る。

現地より多い在日

 1945年8月15日、祖国が解放された当時、荒川区居住の高内里同胞は約1000人いた。祖国解放と前後して郷里に戻った人もいたが、多くが荒川区に留まった。

 大阪にも多くの済州道出身が住むが、日本への移住がピークを迎えたのは解放から3年後、48年の「済州島4・3蜂起事件」以降だ。

 現在の高内里の人口を見ると548世帯1100人余り。渡日をしなかったとみられる60歳以上はわずか250人に過ぎず、ほとんどが日本に渡ったことがうかがえる。

副産物でホルモン

 三河島駅の周辺には多くのホルモン焼き店や焼き肉店が並んでいる。かつて区内に屠殺場があったため、牛、豚、鳥などの肉を卸したあと排出される内臓をはじめ、尻尾や耳などは、当時の日本人にとっては不要物だったが、在日にとっては、思いもかけぬ貴重な食材となった。

 これら副産物を部位ごとに上手に味付けして食べる術を知っていたのは在日だけだった。そのため三河島にはつぎつぎとホルモン焼き店や焼肉店が増え続けた。もちろん、この地域の店は肉だけでなく、メニューにはモングッ(ホンダワラのスープ)など済州島郷土料理もある。

(2017.8.15 民団新聞)