高槻むくげの会 在日のジレンマ
「むくげの会」(高槻市)の顛末に見た
在日のジレンマ
「在日特権」という言葉が流布されるようになって久しい。戦後、在日コリアンが激しい闘争によって「成果」を得てきた歴史も見逃せないが、その一方、在日特権という言説をめぐっては「デマ」や「風説」が横行しているのも確かだ。例えばネット上を中心に散見される「在日コリアンはみな納税免除」といった話は、どうも「朝鮮総連関連施設」の固定資産税ないし地方税の減免措置が歪曲され広まったように見える。
そして一部地域で学校施設、公共施設及びその敷地を民族団体が無償使用、または占有していたことも拍車をかけたのかもしれない。ちょうど「在日特権」という言葉がネット上で多用され始めた時期に、その実例として浮上した一つが「高槻むくげの会」だった。同会は、高槻市立第一中学校内の一部施設を占有し、民族教育、運動に関わってきた。
すでにむくげの会は、同中学から退去し、解散したが、その顛末を見ると、在日社会の複雑な事情が浮き彫りになるのだ。
高槻むくげの会――。むくげ(韓国語でムグンファ)は、韓国の国花で国章にも使用されている。日本で言えば桜のような存在だ。そんな民族を象徴する名を冠し、高槻市立第六中学の卒業生らが設立した民族団体だった。会長の 李(り) 敬宰(きょんじぇ) 氏は、指紋押捺拒否でも知られる民族運動家である。同会による高槻市立第一中学校内の一部施設の使用が市に認められたのは、1984年のこと。翌年、高槻市教育委員会がむくげの会の活動を引き継ぐ形で在日韓国・朝鮮人教育事業を発足。むくげの会は、同中学内の青少年課分室として活動を続けていた。
しかし韓国籍・朝鮮籍以外の在日外国人が増加したことに伴い、同市が多文化共生へ方針転換。むくげの会が同校を優先的に使用していることも見直しが求められた。高槻市は、2005年3月末で明け渡しを求めるも、むくげの会が応じないため、高槻市は、2006年に明け渡し訴訟を提起した。
裁判は最高裁まで争われたが、2010年、高槻市の全面勝訴で明け渡しが決まった。ところが同会は、備品などを第一中学校敷地内、摂津峡青少年キャンプ場、富田青少年交流センターに放置して退去。市が撤去を求めるも、むくげの会は放置を続けた。これも同会による市有地の無断占有として2012年、高槻市は、明け渡しと備品の撤去を求め再び訴訟へ。2010年2月20日から土地明け渡し完了まで1か月5262円の損害金を支払うことなどを条件に高槻市とむくげの会は、2015年に和解となった。
この間、各在日団体及び日本の支援者たちは、高槻市に対して抗議活動を続け、李敬宰会長への支援も呼びかけられた。李氏は、指紋押捺拒否で在日運動家の間でも一目置かれた人物。明け渡し訴訟とも相まって一時は、在日運動家のシンボル的な存在に祭り上げられた。行政とも二度に渡り、法廷闘争を繰り広げたのだから、きっと今でも在日社会で高い評価を受けているだろう。そう思いきや意外なことに現在の李氏は、在日コリアン、そして運動体の間でも距離を置かれているというのだ。
ある在日の運動家はこう話す。
つまりあくまで国籍にこだわる、いわば“原理主義的”な在日コリアンにとってみると、李氏は「裏切者」になってしまうのだろう。確かにむくげの会の退去問題については“後を濁す”かのような対応ではある。ただ在日が帰化し、政治参加すること自体、責められることもでもない。現在の李氏は、高槻市内で福祉施設を運営している。同社に連絡し、むくげの会と選挙について話を聞いてみると「よう分かってはるんやからそちらで調べてください」ということだった。
本来、その後のむくげの会を調べたつもりが、むしろ在日社会が抱えるジレンマを垣間見た思いである。
投稿日: 2017年4月10日 |
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