大阪部落探訪と鳥取ループ 水平社
部分抜粋
『大阪市同和事業促進協議会 40年の歩み』によれば、1990年の時点で世帯数517,人口1356となっている。なお、1881年(明治14年)の調査では世帯数76、人口314だ。戦後の人口急増は、戦災により部落の半分が消失し、その後の復興の過程で人口流入が急増し、スラム化したという。ということなので、住民のほとんどは賎民とは無関係と考えられる。
同和事業には功罪があったというが、大阪市について言えば、功よりも罪が大きかったと言わざるを得ない。都市部落は、本来であれば都市に飲み込まれることが自然な姿である。しかし、同和事業は見た目からあまりにも分かりやすすぎる同和地区を作り、地域と住民の自立を妨げた。
最近になって「同和地区の土地は避けられている、土地差別だ」というが、それではもともと境界など曖昧だったところに、同和地区の線引をしたのは誰なのか。なぜ同和地区に限って路上駐車が蔓延して駐車場がこれほどまでに安いのか。そして、同和事業を止めて、用地を売りに出した途端に、次々と民間住宅が建てられては売れていることを、どう捉えるのか。少なくとも、大阪市に関して言えば、市民による差別ではなくて、政策の問題だろう。
実は加島地区の北に「加島北住宅」という市営住宅がある。『40年の歩み』によれば、これはもともと同和住宅であり、加島同和地区の飛び地だった。しかし1982年に北住宅は一般化され、北住宅に住んでいた加島部落の住民は地区内の同和住宅に移転した。
『40年の歩み』には、さきほどの加島希望の家の写真と一緒にに、1988年89年に、「この年は同促協方式の堅持に関わるゆゆしき問題が起きています。大阪市は、加島地区住民2世帯に対し、地区協の推薦なしに’83~’88年の6年間、個人給付を支給していることが判明しました。いわゆる「市同促協方式」逸脱問題です」との記述がある。これはどういうことかというと、同和事業は解放同盟あるいは解放同盟関係団体が窓口となって行うという「窓口一本化」をすすめている中、大阪市が、窓口を通さずに直接事業を行ったのは(解放同盟の利権を脅かすので)けしからんということである。
解放同盟から見れば窓口を飛ばされることは「ゆゆしき問題」であったが、窓口一本化により解放同盟の支部が絶大な権限を持つようになった。「運動と事業の分離」をすすめているとの趣旨の記述があるが、裏を返せば少なくとも当時は運動と事業が事実上一体ということであり、後に飛鳥会事件が起こったことから分かる通り、「運動と事業の分離」はうまく進まなかった。
鳥取ループ について
コメント欄の水平社に関するやり取りが興味深い。
一番解らないのは、日本国内で口を閉ざされていたこと。
江戸時代は身分制であり、上下をはっきりと付けていたが、
それは遠因の一つであり、
直接的に恐れられたのは、いつの時代も変わらない荒っぽい手法のはず。
危ないから避けた。
その記憶が語り継がれている。
そういう定型パターンではないのかという気がしているが。