縄文人の全ゲノム解読 日本人の起源解明へ


縄文人の全ゲノム解読 日本人の起源解明へ
科学&新技術
2019/5/23 4:30
情報元
日本経済新聞 電子版


国立科学博物館国立遺伝学研究所東京大学などの研究チームが縄文人の全ゲノム(遺伝情報)解読に成功した。縄文人が3万8000~1万8000年前に大陸の集団からわかれたことが推定できた。人類学の研究に最新のゲノム解析を取り入れる流れは世界的にも進み、従来の見方を変える画期的な成果が出ている。縄文人ゲノムの完全解読で、
日本に住む人々の起源を探る研究の加速が期待される。

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縄文人は約1万6000年前から3000年前に日本列島に暮らしていた人々だ。アフリカ大陸で生まれた人類は4万~5万年前に東アジアに進出。大陸から南西諸島や朝鮮半島樺太などを経由して日本列島に渡ったとみられている。狩猟採集生活を営み、各地に広く分布していた。3000年前以降は大陸から弥生人と呼ばれる新たな集団が渡来し、混血が進んだ。

国立科学博物館などのチームは礼文島(北海道)の船泊遺跡で1990年代に発掘された、約3800~3500年前の縄文人女性の歯からDNAを抽出。得られた遺伝情報を現代の東アジアの人々と比べることで、縄文人の祖先集団が現代の漢民族の祖先とわかれた時期がわかった。
これまでも様々な発掘物や史料の組み合わせで時期を推定していたが、ゲノム情報だけで年代を絞り込めたのは今回が初めて。国立科学博物館研究員の神沢秀明さんは「日本で有史以前の人類の全ゲノムが正確に解読されたのは初めて」と言う。

ゲノム情報からは今回解読した1人の縄文人女性の詳しいプロフィルも分かった。
脂肪を分解する遺伝子の変異があり、狩猟による肉中心の脂っこい食事に適した体質だった。酒にも強かったとみられる。顔つきについてもいくつかの遺伝的な特徴がわかり、研究チームは2018年には顔の復元図を発表している。

ここまでの情報が読み取れるのは、解析した骨の保存状態がよかったからだ。通常は骨の中でDNAの分解が進んだり、他の生物のDNAが多く紛れ込んだりする。特に骨の保存状態は温度に左右されやすく、温暖な西日本や沖縄では骨の中でDNAの分解が進みやすい。発掘後に分解が急に進むこともある。神沢さんは「全ゲノム解析が行えるケースは多くないだろう」と言う。

研究チームは今後、30体ほど解析して地域差を調べる考えだ。こうして縄文人のデータベースができれば、縄文人がどのように日本列島へ広がったのか、その後日本列島にやってきた弥生人縄文人の間にどのような交流があったのかがわかるようになる。遺伝病の起源などがわかり、医学研究にも役立つ。

人類学の研究に、最新のゲノム解析技術を取り入れるのは国際的な流れだ。03年の現代人のヒトゲノム完全解読を契機に、医学や生物学の研究でゲノム解析が一般的に行われるようになり、解読技術が飛躍的に進歩して安価に解析できるようになった。
これが古代人と現代人の比較研究にも広がったわけだ。

これにより、従来の人類史の見方を変える様々な発見がもたらされている。例えば、
約2万~3万年ほど前に絶滅した人類のネアンデルタール人は、現代人のホモサピエンスと交流はなかったとされてきたが、ゲノム解析によって私たち現代人が彼ら由来の遺伝子を受け継いでいることが10年にわかった。

さらに近年、発見された新種の人類をゲノム解析することで、様々な種類の人類が交流する人類史の姿が明らかになりつつある。08年にロシアで化石が発見された新種の人類「デニソワ人」は、ネアンデルタール人との間に子をもうけていたことが18年に判明。一部の現代人はデニソワ人の遺伝子を受け継いでいるという見方もある。

古代人のゲノム解析は、これまで欧米の研究チームを中心に進んできた。東アジアは近年新種の人類の発見が相次いでおり、注目を集める。研究チームを率いる遺伝研教授の斎藤成也さんは「遺伝情報を公開し、海外とも共同研究を進めたい」と話す。成果は日本だけでなく、東アジアの人類学の発展に貢献する可能性がある。(出村政彬)


縄文人弥生人
 縄文人が日本列島で暮らすようになった後、約3000~1700年前に弥生人は新たに渡来した。縄文人弥生人の間では混血が進んだ。今回の研究では混血に地域差があることも分かった。東京で試料を取った本州の人々は、縄文人のゲノムを約10%受け継いでいた。一方、北海道のアイヌの人たちは約7割、沖縄県の人たちは約3割だった。
 研究チームによると、弥生人の渡来は一度ではなく、2つの集団が異なる時期に
日本列島に渡来した可能性があるという。縄文人と現代人のゲノム比較から現代人の持つ弥生人のゲノムの特徴も分かると期待されている。


縄文人 - Wikipedia

縄文人(じょうもんじん, Jomon people)とは、縄文時代に日本列島に居住していた人々の総称。約1万6000年前から約3000年前まで現在の北海道から ... こうした特徴を持つ人々が日本列島に出現した時期は、最終氷期の最寒冷期(紀元前160世紀すなわち1万8000年前に氷河が堆積して ... の中期のたった一人である為、時代、地域共に広範囲での多数の検証が期待される。3500年前の礼文島縄文人女性の全ゲノム解析は、 ... C1a1とC2aは日本人固有であり、現在の日本ではおよそ5%の頻度で発見されている。

旧石器時代後の、約1万6,500年前の紀元前145世紀から約3,000年前の紀元前10世紀にわたる縄文時代の文化は、概ね現在の日本に分布していた。そのため、この地域に居住していた縄文土器を作る新石器時代人を縄文人と見ることが出来る[2]。平均身長は男性が160cm弱、女性は150cm弱でがっしりとしており、彫りの深い顔立ちが特徴で、世界最古級の土器を作り、約5000年前の縄文中期には華麗な装飾をもつ火焔土器を創り出すなど独自の文化を築いた[1]。東南アジアに起源をもつ人々ではないかと考えられてきたが、父系・母系両方の遺伝情報が入った核DNA解析の結果(三貫地貝塚人骨、船泊遺跡縄文人骨)、東ユーラシアの人々の中では遺伝的に大きく異なる集団であることが判明した[1]
なお、もともと新石器時代という概念はヨーロッパを対象とした考古学における概念で農耕の存在を重視するものだったため、1960年代からしばらくの間は縄文文化は新石器文化に分類されていなかった。
この縄文人は時期によって異なるが地域ごとに4から9のいくつかの諸集団に別れていたと考えられている[3]。日本列島(旧石器時代のこの海域は後述のように、現在とは相当に異なった海岸線を持っていた)に居住していた後期旧石器時代の人々が、後に縄文文化と総称される文化形式を生み出し、日本における縄文人諸集団が出現したと推測されている。


分子人類学から見た縄文人のルーツ[編集]

父系のルーツ[編集]

父系のルーツを辿ることができるY染色体ハプログループは、数万年にわたる長期的な追跡に適しており、1990年代後半から研究が急速に進展した。それに伴い、現代日本人は従来考えられてきたよりも色濃く古モンゴロイド縄文人の血を引き継いでいる事が判明してきた。
崎谷満の分析では、日本人は主にY染色体ハプログループD1bの縄文系とハプログループO1b2弥生系を起源とする事が明らかになった。このハプログループD1bアイヌ人沖縄人・本土日本人の3集団に多く見られるタイプであり、朝鮮半島中国人漢民族)には全く見られない。このハプログループD1bアイヌ人の88%に見られることから、D系統はかつての縄文人(古モンゴロイド)のものであると考えられている。但し縄文人のハプログループがD1bだけだった訳ではなくハプログループC1a1もあったことが知られているが、多数派として現在まで伝わったハプログループがD1bだといえる[8]
ハプログループD系統はYAP型(YAPハプロタイプ)ともいわれ、現代アジアにおいて支配的なO系統C2系統とは分岐から7万年以上経ており、最も近縁であり同じYAP型であるE系統とも6.5万年前に分岐した系統である。現在D系統は、日本列島以外で高頻度の地域はチベット[9][10]アンダマン諸島[11]しかない。
なお、当時の弥生人や現代東アジアにおいて支配的なO系統は、ウラル系N系統コーカソイド系において最多的なR系統などと近縁であり、YAP型(D系統、E系統)とは全く異なるグループである。以上のことから縄文人から自然進化的に弥生人が派生したという説は完全に否定されている。
日本列島にD系統の人々が入ってきたのは数万年前の最終氷期地続きの時代と考えられている。その証拠として、日本人のD系統にのみ見られる多くのSNPの発生があげられる。SNPは突然変異により発生する確率的な事象であるから、発生数によって時間の経過が分かるのである。日本固有のD1b系統はその発生から3.5-3.7万年ほどたっているとされ[12]、考古学から求められる日本列島に最初に現生人類集団が到来した時期と一致している。
長らく縄文人の人骨よりY染色体ハプログループは分析されてこなかったが、北海道礼文島の船泊遺跡(縄文時代後期前葉から中葉(約3,800~3,500 年前))から出土した人骨・船泊5号のY染色体ハプログループがD1b2a(D-CTS220)であることが判明した[13]。これにより「ハプログループD1bは縄文系である」という従来よりの仮説に一つ近づいたが、検証したのは長い縄文時代の中期のたった一人である為、時代、地域共に広範囲での多数の検証が期待される。3500年前の礼文島縄文人女性の全ゲノム解析は、エスキモーのような動物性油脂の消化に優れていたことを示している。https://www.sankei.com/life/news/190513/lif1905130030-n1.html とりわけハプログループC1a1は拡散年代と縄文文化開始の時期が一致しており、今後の研究いかんによっては初期の縄文人の主要なDNAとなる可能性がある。C1a1とC2aは日本人固有であり、現在の日本ではおよそ5%の頻度で発見されている。

母系のルーツ[編集]

父系のルーツを辿れるY染色体ハプログループに対し、ミトコンドリアDNAハプログループは母系のルーツを辿ることができる。ただし、ミトコンドリアDNAは稀に男性のDNAが混じることや、人間より検証個体の多いネズミのDNA測定では、ハプログループの分岐や時期が事実とは全く異なっていたから、あくまでもY染色体DNA等、他の資料と共に考察する必要がある。
ミトコンドリアDNA(母系)の分析によって縄文人のルーツの一角が解明され、日本固有のハプログループM7aや南方系と共通の遺伝子を持つハプログループBFを持つことが知られている。宝来聡の研究によると、「東南アジア少数民族から日本列島に位置する琉球弧人やアイヌまでが共通の因子を持つ」とされ、形質人類学においてはこれらの人々が縄文人と最も近いとされることから、縄文人のルーツは東南アジア旧石器時代人との見方が可能である[14]
これらを裏付けるように、国立科学博物館人類研究部 研究主幹の篠田謙一らの研究では、鹿児島県霧島市・上野原遺跡の縄文人(25,000年前)から同様にハプログループM7aが検出され、縄文人は、現在は海底に沈んでいる東南アジアフィリピン沖のスンダランドが起源で、北上して南九州に到達し、大隅半島西北部の小高い台地にある上野原遺跡と呼ばれる「最古のムラ」から日本全国M7a系統縄文人が拡散したと想定している。このM7a系統は、縄文時代にすでに北海道へも到達していたことが明らかとなっている。
さらに2010年までに沖縄県石垣島白保竿根田原洞穴遺跡から発掘された、旧石器時代人骨国立科学博物館が分析した結果、国内最古の人骨(約2万-1万年前)とされた4点のうち2点はハプログループM7aであることが明らかとなった[15]
しかしながら、溝口優司は、5万年から6万年前にインドを経由し東南アジアで放散した東アジア人全体の祖先[16]の中から日本列島に到達したグループは複数存在し、東南アジアから北上する過程で台湾南西諸島を経由し日本列島に到達した場合もあれば、一度北上し1万5千年前にバイカル湖周辺で寒冷地適応した後に南下し朝鮮半島や中国から日本列島に移住した場合、バイカル湖を経由せずに大陸を海岸沿いに北上し、ブリヤートあたりから南下したルートが存在すると考えると、日本列島の遺伝的勾配をうまく説明できるという説を唱えている[17]。この説の要点は東アジアグループの成立年代が6万年前であり、バイカル湖で寒冷地適応したグループがアフリカから中央アジアを経由したわけではないので、宝来や篠田の説とも矛盾しないが、溝口の説はあくまで仮説の域であり、確証となる根拠は皆無である。
いっぽう尾本惠市崎谷満などの分子人類学者は東アジアへの人類到達はヒマラヤ山脈の北方を経由したとする「北回り説」を唱えている。崎谷は著書[18]において、ミトコンドリアDNAY染色体といった分子人類学的指標、旧石器時代石刃技法という考古学的指標、成人T細胞白血病ウイルスやヘリコバクター・ピロリといった微生物学的指標のいずれにおいても、東アジアのヒト集団は北ルートから南下したことを示し、南ルートからの北上は非常に限定的であったと述べている。崎谷はハプログループM7aは東南アジアではなくシベリア南部-極東で誕生したとしている。この説が正しいとすれば、縄文人の祖先もまた出アフリカ後にアルタイ山脈付近、朝鮮半島を経由して日本列島にやってきた人々の子孫であり、縄文人のスンダランド起源説は完全な誤りということになる。
また北海道の縄文人ハプログループN9bが最多でM7aは少なく、東北地方の縄文人も似た傾向を示している。このことから縄文人のルーツは一つではなく複数あったと考えられる。